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FAITH / HISTORY
淨土宗
法然上人〔法然房源空〕(1133〜1212)
承安五年(1175)
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阿彌陀佛(阿彌陀如來)
阿彌陀佛の平等のお慈悲を信じ、「南無阿彌陀佛」と、み名を稱えて、人格を高め、社會のためにつくし、明るい安らかな每日を送り、お淨土に生まれることを願う信仰です。
お釋迦さまがお説きなった『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三部経をよりどころとします。
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淨土宗の宗紋は「月影杏葉(つきかげぎょうよう)」と呼ばれる紋です。法然上人の生家・漆閒家の紋に由來し、大正四年(1915)に、蕊を七個とし、宗歌「月かげ」に詠われている「月」を配して現在の紋が定められました。

月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ

法然上人が詠まれた和歌の中でも代表的な一首で鐮倉時代の敕撰和歌集『續千載和歌集』にも選ばれています。その詞書に「光明徧照十方世界といえる心を」とあるように、阿彌陀佛の光明は全世界をあまねく照らし、どんな人をも救い取るという慈悲の心を歌われたものです。
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法然上人は平安の末、長承二年(1133)四月七日、美作國(現在の岡山縣)久米南條稻岡庄に、押領使・漆閒時國公の長子として誕生され、幼名を勢至丸といいました。勢至丸さまが九歲のとき、父・時國公の館が夜襲され、不意討ちに倒れた時國公は、枕邊で勢至丸さまに遺言を殘されます。「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた廣い心を持って、すべての人が救われる佛の道を求めよ」

この言葉に從い勢至丸さまは菩提寺で修學し、その後十五歲(一說十三歲)で比叡山に登って剃髮受戒、天臺の學問を修めます。久安六年(1150)十八歲の秋、黑谷の慈眼房叡空上人のもとで勉學に勵み、法然房源空の名を授かり、「智惠第一の法然房」と評されるほどになりました。以後、法然上人は遁世の求道生活に入ります。

この時代は政權を爭う内亂が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混亂の中にいました。萬民平等救濟を一途に求め續けられた法然上人は、黑谷報恩藏の一切經を讀破されること五度に及び、ついに唐の善導大師の「觀經疏」の中にある「一心に專ら彌陀の名號を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。彼の佛の願に順ずるが故に」の一文により、阿彌陀佛のご本願を見いだします。それは「南無阿彌陀佛」とただ一心に稱えることにより、すべての人々が救われるという專修念佛の道でした。承安五年(1175)、上人四十三歲の春のこと、ここに淨土宗が開宗されたのです。

法然上人はこの專修念佛に確信をいだいて比叡山を下り、やがて吉水の草庵、現在の知恩院御影堂の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え、念佛の敎えを說かれました。法然上人の敎えは、多くの人々の心をとらえ、時の關白である九條兼實公などの貴族にも敎えは廣まっていきました。しかし、敎えが世に廣まるにつれ、南都北嶺からの彈壓も大きくなりました。加えて、上人の弟子である住蓮、安樂が後鳥羽上皇の怒りをかうという事件が起き、建永二年(1207)、上人はその責任を負い四國へ流罪となりました(建永の法難)。五年後の建曆元年(1211)十一月二十日に歸京されましたが、吉水の舊房は荒れ果てており、靑蓮院慈鎭(慈圓)和尙の配慮により今の知恩院勢至堂のある場所、大谷の禪房にお住まいになりました。

年明け早々、病牀につかれた法然上人は、弟子の勢觀房源智上人の願いを受け、念佛の肝要をしたためます。それが「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念佛すべし」と述べた『一枚起請文』です。そして建曆二年(1212)正月二十五日、八十歲で法然上人はご往生されました。