最近、夫が定年退職してから死を迎える妻が増えるという記事を目にした。今まで家に居なかった夫が一日中在宅している事からくるストレスが原因らしい。

 この事を皆様は、どの様にお感じになりますか。

 寺に相談にみえる女性の多くが夫に不満を持っている事や、妻が重大な悩みを抱えていることを全く知らなかったり気にも止めようとしない夫の多い事を思うと深く納得する。これは時代や社会背景が原因と評する方もいるが、そうではないようだ。

 人のストレスは、自分が理解をされていない、受け入れてもらっていない、認めてもらっていないという意識の中で生まれる。

 夫婦だから話さなくても分かってくれるものとタカをくくっている夫。話し合いが無い事による、思い込みや憶測から誤解に発展していく事が多い。夫婦であればこそ心の苦しみや悲しみ、痛みや訴え、悲鳴を聞こうとする努力が必要ではないだろうか。離婚を胸に秘めて時期を待っている妻の多さを知っている夫はいるのであろうか。そしてその危険を回避しようと努力しているのであろうか。夫の定年以前にも、このストレスから精神性アレルギーや喘息、ノイローゼ等の病に陥っている方を多くみる。

 またこれは夫婦だけの問題に止まっていないことに気が付いて頂きたい。今日まで「彼岸によせて」でお伝えしてきた様に、妻がそれだけストレスを日常的に抱えていることは子供に常に向けられているからである。このストレスエネルギーの及ぼす影響の大きさは計り知れないものがある。ストレスが恐ろしいのは、姿を変え形を変えて、あらゆる場面や時間に顔をのぞかせたり潜伏するからである。ストレスを持つと周りを見る余裕が無くなり、子供の心を見たり感じたり出来なくなる。すると子供もストレスを持ち始める。ストレスを持った子供は心を閉ざすため、その時期からの心の成長は止まってしまう。同居しているとこの影響を義母や義父が受け、家庭が暗くなり会話が無くなる。家庭内の悪循環の始まりである。その様な家庭で育った子供達は結婚に対し消極的である。子供が将来に希望や夢を持てない原因が家庭に有る。親の背中が希望に溢れ楽しく明るく無いから。

 ここまでお伝えすればお分かり頂けますように、夫婦の心の不一致は、子供の将来をも歪めているのです。

 佛事は、高齢になり仏の世話をしなければならなくなってからすれば良いと言う方がおられますが、人生、不幸な結果を迎えてから、仏の教えに会っても全く意味は有りません。命の不思議さ、出会いの尊さ、縁の無限さ、人としての生き方、人生や社会に疑問や難しさを感じ始めたら、仏の教えに耳を傾ける時です。

 彼岸とは、迷いの此の岸から悟りの彼の岸へ、という意味です。夫や妻の事で日々悩み苦しみ、相手に不満を持つ此の岸から、佛の教えにより自分の間違いに気付き、安穏な心で相手を見つめ、夫婦が互いを尊敬出来る姿が彼の岸です。

 連れ合いに先立たれた悲しみの此の岸から、仏の教えにより成仏の経巻を頂くことで、日に日に共に過ごすことの出来得た縁に感謝と喜びの心で過ごせる姿が彼の岸です。

 縁無く夫婦と成り得なかった方々は、周りのせいにする此の岸から、仏の教えにより縁の不思議さを教えて頂き、日々精進の大切さや己の至らなさに気付き楽しく努力する姿が彼の岸ということです。

 自身の人生を嘆いている此の岸から、お経を読みこの世は総て因縁因果の法則に従うということを深く学び、原因を自身の中でより多く探し、改心する事が彼の岸の姿です。

 この様に、人生の早い時期に仏の教えを実践していく事によりストレスの無い人生が歩めるのです。

 人間、一人として同じ考え、同じ人生はありません、そのような人間でも仏の教えは、何人にも当てはまります。それは、この娑婆世界に存在するもの総てが、因縁因果の法則で動いているからです。人間が中心では無いこと、人間が法則を作っているのでは無いこと、人間の思いで娑婆世界は動きません。

 お経は、特別な人に特別な権威を与える為に残されたものではありません。

 仏は一人の賢者を望まれてはおられません。人のおごりによる差別、そこから引き起こされる争いや葬りの卑しい心が修まり、総てのものが必要不可欠な存在となることを望まれておられるのです。

 春の彼岸、経文を読み仏の知恵を頂き、改心し、尊敬し互いの人生を生かし切るその努力を、墓前で約束する事も大切ではないでしょうか。

合掌