子供の問題が後を絶ちませんが、その時に視点をその子に向けるのかその親に向けるのかにより、問題解決は大きく異なると思います。私はこの時、親に視点を向けるべきだと思います。

 子供を見下すしか出来ない親。親の立場や権利を振り回し、子供のほんの一部を見て何でも分かっていると思っている親。それは、勝手に自分で都合良く作り上げた子供像で親の妄想と気付くべきでしょう。如何に無知で上辺だけの理想の親の役に成りきろうとしているか。そんな親のエゴの為に苦しむのは、何時も何も言えない弱い立場の子供です。

 親の立場は、どなたに、何の目的で与えて頂けたのでしょうか。親である方達が、自分の足りない部分を補うことなく、人の心を持った子供を育てさせて頂く事は出来ません。「親以外に子供を守れない」と云う親は、人の心は持っていません。親たちは仕事に対する努力はしたでしょうが、親に成らせて頂く為の努力はしなかったのでしょう。また親は子供が悪い方向に行けば、子供の努力が足りなかったんだと、誰が聞いても否定できない答えを用意し、親の責任を逃れ、知らないから出来ることなのでしょうが涼しい顔をして総てを子供に押し付けます。その原因が自分にあることなど、思ってもみないのです。自覚がないということは病気と同じで、子供は悪化の一途を辿る事になります。

 日々の生活の中で常に損得を考えて行動されている方がおられますが、果たしてこの世の生きとし生ける物達は、自らを考えて生きているのでしょうか。自然界は総て連鎖の中で生かされていることに気付きます。人もまたその連鎖の中に溶け込んでいました。この連鎖は誰が作り上げたのでしょう。人間でないことは確かです。科学でも医学でも、あらゆる人智の最高峰まで上り詰めた研究には、解明出来ない法則に辿り着くそうです。その領域を、学者達は神の領域と呼んでます。

 人としてこの世に生まれさせて頂いた事、それは既に損得を遙かに越えた存在で在ることに気付くべきではないでしょうか。人も神仏の領域であり、宇宙規模の壮大な連鎖の中で損得を考えている生命は唯一、愚かな人間のみではないでしょうか。

 宗教を嫌う方は何時の時代にもたくさんおられます。大変よく分かります。欲を願い、叶えてもらおうなどと、ろくに努力もせずに、という事でしょう。しかしそれは宗教ではありません。本来の宗教は、人間生活の利益の事、欲を満たすための低俗な事は、釈迦の教えにはございません。手を合わせる時は、ご先祖の成仏を願う時、神に人として正しい生活をしますと誓いを立てる時です。決して欲を願うものではありません。たとえ貴方が願い事をしたとしても聞いて頂けることはないでしょう。御神仏の存在を知ろうともせず、己の欲のみに目が眩んでいる生き物の云うことなど、受け入れられる御神仏はこの宇宙にはご一体もおられません。しかし悪魔はそれらの欲を受け入れてくれます。人は何時からか御神仏と悪魔を見間違えて接してしまっているようです。

 家族の事故や病、不都合な出来事は親が原因だと云わせて頂きます。それは今回お考え頂きましたように、親が、自分の足りない部分を補わずに来たこと、気付かずに来たことが大きな原因になっているからです。親に成らせて頂く為には親の心をお持ち頂くことが大切な事なのです。人の親としての心の成長は、お釈迦様の教えを深く静かに学ぶより他にはありません。日々起きる家庭の問題、人間が引き起こす問題の総ては、人として持つべき心の欠落が根本原因にあると思います。

 春の彼岸、

 自分自身が、無限のエネルギーで生かされている事を知り、人は初めて感謝が出来るのです。自分の存在を自然の中で静かに顧みることができれば、人は己の愚かさに気付かせて頂けるのではないでしょうか。宗教とはこのような気付きの一つ一つをお釈迦様の教えの中で学ぶことをいいます。

 日常生活の中で起こる総ての事は夫婦に託されています。このことに気付かれた方は、正しい心を取り戻す為にお釈迦様の教えを学ばせて頂き、明るく楽しい心穏やかな毎日を送らせて頂かれることを切望いたします。

合掌